2005年10月17日

日本酒と植林の話 梶谷幸生

樽廻船.jpg 奈良の吉野は、古くから杉の割り箸の産地で有名である。しかし、この割り箸の材料が樽を作る材料の余りであることを、知っている方は少ないだろう。川上村には、室町時代の末に「木地曽木座」という木地屋の同業者組合があり、膳やお椀を盛んに作って下市に出荷していた。このお椀が、吉野椀と呼ばれるものである。 木地屋とは、ロクロを使って椀・盆・膳などの円形木器を作る人達であり、山中に良材を求めて、さすらう技術者集団だった。ちなみにロクロとは、軸の端に刃を取り付けて軸を回して木材などを丸くえぐり削る工具である。本来、木地屋の作り出す木器は庶民のためのものではなく、仏教の普及にともなっての公家と呼ばれる貴族の要請にこたえるために活動していた。それは、名前通りのお経の筒である経軸といった木製の仏器の生産だったが、やがて、漆塗りの普及により、お寺の接待用具として盆や膳の生産にシフトしていった。漆塗りを広めたのが高野山系の根来寺だった。当時は、貴重で贅沢な朱漆を用いた「根来塗り」の膳やお椀を客人に出すことが最高のもてなしだった。
 紀ノ川沿いには、ナタや斧できれいに割れる良質の木が多く、板目が真っ直ぐ通っていて「吉野杉」と呼ばれていた。室町時代の末になると桶が発明される。ちょうど「木地曽木座」が活躍していた頃だ。その頃の桶は、丸太を短冊状の板に割り、矢を射る時の弓がしなった形のように削った板を縦に並べ、竹の輪をはめ、円形の蓋〔ふた〕をいれたものだった。まさに、酒樽の原型である。桶の発明により、酒や油の大量輸送が可能になってくる。当時、大阪の堺には、83軒の酒蔵があり、桶や樽を専門に生産する「桶結座」という同業者組合により、酒樽は吉野から堺に送られ、後には、灘五郷〔兵庫県西宮市・神戸市灘区〕にも送られるようになった。
 そして、江戸時代になると、大型の桶や樽が作られるようになる。それまでは、馬を使った陸上輸送が主体だったが大量輸送には不向きであった。大量の物資を運ぶには、時間はかかるけれど陸路より海や川を使った水上輸送が適している。また、その頃、東北や北陸地方の諸藩は、年貢として取り立てたお米を江戸や大阪に運ぶ直行路を開くことを望んでいて、河村瑞賢〔教科書に出てくる有名人〕は、秋田から津軽海峡を経て太平洋側に出て江戸にいたる東廻り航路と日本海沿岸をまわって下関を経て大阪にいたる西廻り航路を整備した。また、瑞賢は、安治川を開き、伏見から淀川を下って大阪にいたる舟航路も開いている。このことが、伏見の酒を発展させ、また、今日の「北山杉」の礎になったことは言うまでもない。
初期の海上交通は、幕府や藩の年貢米輸送を中心に整備されたが、やがて、各地で作られた酒はもとより酢・醤油・味噌・油といった商品を大阪に集荷して江戸に送る樽廻船が歴史の表舞台にに登場することとなる。
 樽廻船は、大阪〜江戸間の酒樽の定期運行便として活躍し、始まった頃で、年間、1升ビンに換算して清酒500万本を江戸に運んでいた。樽廻船は、小型で荷物を運ぶのが早かったので、やがて酒以外の商品を安く船積みするようになり、それまで市場を独占していた菱垣船を抜いて活躍した。当時の舟は、遠隔地間の商品の価格差を利用して利益をあげるための、なくてはならない乗り物だった。時代のニーズにマッチしてたので樽廻船は、飛躍的な発展を成し遂げたのだろう。
 庶民の生活にも変化がでてきて、酒や味噌、醤油を貯蔵するために桶が普及してきた。また、農作業でも桶が広く使われるようになってきた。
 桶や樽の大型化や需要が増えてくると作る側としても、近くに天然の良木があればよいが、なければ山奥まで入って伐採をしなければならない手間がでてくる。この問題を解決するために、植林が行われるようになる。
 「吉野杉」は、酒樽に適していたが、天然木は枝が多くて割れにくく、木の中心部の赤味が少ない欠点があった。その分、植林にして下刈り・枝打ちなど手入れをして、均一の太さに育てた杉は、割れやすく酒樽の大量生産が可能になっただけではなく、木の中心部が赤味をさし江戸に送られる間に木の香りが酒に移って美味になり、伏見・伊丹・灘の清酒が全国に普及していった一躍をになったとも言われている。
 このように、植林は、吉野での酒樽を作り出すことから起こり、それが樽廻船の発展とともに全国各地に広まっていった。現在、各地の記録・伝承から、およそ元禄時代以降になると考えられている。日本酒と植林が関係が深いのは、酒造りをしている蔵元の近くに酒樽を作る杉を安定供給する植林がなくちゃ商売が成り立たないからだろう。有名酒処に「北山杉」や「吉野杉」といった植林が存在することからも、お分かりいただけるだろう。
 その後、城下町の発達から建築用材の需要が飛躍的に伸びて、植林は、ますます普及していくこととなる。尾張藩や秋田藩は、直轄地から切り出す材木を「木曾檜」や「秋田杉」といったブランドとして売り始める。紀伊国屋文左衛門は、明暦の大火の際、木曾の木材の買占めで豪商になったのは有名な話だが、彼は、船をたくみに使う相場師であり、巨富をなしえた材木問屋だった。
posted by 飄逸沢遊会 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地誌・経済史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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